これでもくらえ

なにもかもウルトラQのせいだ

映画『怒りの孤島』に関して

 

嗚呼、久松静児監督の『怒りの孤島』をもう一度観たい。欲を云えば何度も観たい。そう常々考えている矢先に当時親御さんに連れられて映画館で本作を鑑賞されたと云う1952年生まれの方からメールを頂戴した。僕と同じ様に「もう一度観たい」と。やはり文部省推奨作品ですから、教師の推薦もあったそうです。本作は日映が独立プロとして発足して初めて制作された映画だが日映は僅か二本の映画を制作した後、解散。そうした事情もあって未だに35mmネガ、ポジ共に所在不明と云う幻の映画である。唯一現存する16mmプリントは非常に劣化が進行した状態で、昨年シネマヴェーラで鑑賞した際には唯一の16mmプリントも完全褪色の為に、遂にモノクロに転換されたBDによる上映だった。天然色の効果を売りにした作品でもあるので非常に残念だが、これ以上劣化する事を考えれば最善の手段なのかも知れない。ソフト化は先ず不可能だろう。次回の上映を待つか、映画と若干の差異はあるが雑誌「映画芸術」(1957年11月発行)に掲載されている原作者(水木洋子氏)の『怒りの孤島』シナリオを読み耽るしか渇望を潤す手段が無いのだ。さて、本作を鑑賞するに当たって映画の題材である日本の孤島で実際に起こった「舵子事件」について概要を知っておくと映画の愉しみは一層増幅する。当時のプレスシートや雑誌に目を通すと1951年5月に報道された「舵子5人脱走」を取り上げているが、実際には3年前の1948年7月に第1次「舵子事件」(「舵子監禁死亡事件」)が発生している。内容はボロボロの服を着た少年2人が道路に干してあった豆を盗もうとしている所を警察員が発見。保護し事情聴取を行った際に、孤島の過酷な舵子制度の内情が明らかとなり、更には15歳の舵子が監禁放置の果てに死亡したと云う虐待事件が発覚した。(起訴された漁師は懲役1年の実刑判決だった。) そして3年後の1951年5月に第2次「舵子事件」が発生。前述の事件と同島から5人の舵子が集団脱走した。2度目と云う事で、マスコミが大々的に取り上げた事から世間に知れ渡る要因となったそうだ。実際、水木洋子氏の脚本は第1次、第2次両方の事件からインスパイアされたと思う。作中に登場した舵子の直二は空腹の余りに盗み食いを繰り返した罰としてエサ箱に監禁放置され病気の末に餓死するが、第1次「舵子事件」で同上の理由で罰を受けダンベ(魚の餌を保管する箱)に監禁されて死亡した被害者の少年と重なる。そして灯篭流しの祭りの夜、脱出を実行した幸太郎達は紛れもなく世間を騒がせた第2次の「舵子5人脱走」の再現だろう。元々「舵子」と云うのは潮流の早い海峡で鯛等の一本釣りをする為に舵取りの役として櫓を操作する役目で通常は漁師の子供が行っていたが、好景気を機に漁船が増えて家族では賄いきれず大正末期より貧困家庭の子供を雇う様になる。次第に人買いから親無し子や不良少年等の持て余し児(日当等の給料も支払わなくて済む児童)を買って、僅かな食料で過酷労働を強制していた。皮肉にも需要と供給が成り立ってしまったのだ。隔絶した孤島で起こった事件であるのと、島民の全てが漁師で孰れも舵子を雇っていた為に御互いに口を封じていた事、駐在所の巡査が訪れても舵子達は漁師を恐れて実情を告白する事がなかった為、当事件の発覚が遅れた要因になった事は作中で描写されており印象に残っているが、何より舵子を奴隷以下の道具の様に扱った大人に罪の意識が無いのが恐ろしい。映画の中で警察に罪を問われる漁師が児童虐待の言い分にこう投げ掛けるのだ、「わしだって舵子から1本になったんだ。11の時に売られてきて成し遂げた漁師なんだ。1人前に仕込まれるには辛くても昔の人間はそんな不満は言わなかった。わしがやられてきた事を次の代にやらせて、それが何で罪になるんだ!」児童虐待の肯定に繋げる訳ではないが、子供以上に大人が病を患っていたのだ。そして貧困が生活のみならず心まで蝕んでしまったのである。一概に児童虐待を働く大人だけを糾弾し難い社会の非情と闇が根底に潜んでいる…それは当時から豊かになったであろう今の時代も大して変わってないのではないだろうか。脚本の中で孤島から抜け出した不良少年・幸太郎が「大人の保護園つくったらええわ!」と皮肉を吐き捨てる台詞は、孤島の漁師のみならず虐待を傍観した島民、社会全体に訴えた少年の絶叫として胸に刺さる。

 

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舵子事件が発生した孤島は、伊予灘に浮かぶ大島の東隣にある情島である。(映画では愛島と呼称される。) 久松監督は、壮大な情景の島の中で行われている非人道的な歪んだ風習と云う矛盾を生々しい形ではなく美しい瀬戸内海の風光を通して衝きたいとの心意気だったが現実問題、情島での撮影は島民の感情からして許されそうも無いとの事で条件に似た島を瀬戸内海で探すも立派過ぎると云う理由で結局宮城県江ノ島(もはや瀬戸内海ではない)に落ち着いた。人口1300、戸数150の小島だ。江ノ島での撮影は1957年7月下旬から。(8月中旬に開始との文献もある。) ロケ隊は漁船をチャーターして約1ヵ月間の長期撮影を敢行。撮影自体は約2ヵ月間に渡って行われ前述の江ノ島を主軸に、少年達が直二に水を順々に飲ませるとりの家の中等の一部は調布撮影所での撮影だそう。監督が爽やかな絵作りを意識された効果が十分に発揮されて情景が美しいのは勿論、本作は物語に動きを与える個性豊かな少年陣に拍手を送りたい。見事な迄に境遇も性質も異なる少年達の表情1つ1つに説得力があったのだ。本作でデビューしたマレイグマこと鉄役の鈴木和夫氏を「東宝児童劇団員」出身と記録している文献もあれば「一般から応募した素人」との記録も存在するのは何故だろう。人を寄せ付けない狂犬の様な鋭い面構えの鈴木和夫氏とは反対に、無垢で素朴な甘いマスクの悌三演じる手塚茂夫君の内側から溢れるあどけなさたるや…!

 

f:id:zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz:20200920021412j:image↑ 「キネマ旬報」(1957年10月)より、日映スコープ第一作「怒りの孤島」久松組。調布映画セットにて。

 

f:id:zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz:20200920021448j:image↑ 「キネマ旬報」(1957年10月)より、宮城県江ノ島にてロケ撮。久松監督は映画の中で子供がウミネコを飼っている場面を取り入れたかったそうだが、群棲期を逃してしまい残念ながら叶わなかった。


f:id:zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz:20200920021451j:image↑ 「主婦と生活」(1957年11月)より、直二の亡骸を抱える鉄と、親代わりのニコヨン重助の餞に笑みを浮かべる悌三。