これでもくらえ

なにもかもウルトラQのせいだ

映画『年ごろ』(1968年 東宝)

 

ラピュタ阿佐ヶ谷で鑑賞。

出目昌伸監督、映画『年ごろ』の感想です。

 

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【粗筋】―大学受験を一年後に控えた高校生の陽子(内藤洋子氏)は、春休みで訪れたスキー場で兄・大介(松山省二氏)の恋人・幸子(吉村実子氏)が小倉(岡田眞澄氏)で親しくしている所を目撃、苦悩する。

純情で潔癖な陽子は、兄思いな一面もあって、小倉に「幸子さんに金輪際関与しない」様に、直談判をし、小倉は承諾する。

しかし、小倉の落ち着き有るスマートな態度に大人の魅力を感じた陽子は、思いも寄らず、心惹かれてしまい………

 

本作は、山田順彦氏の原案を松木ひろし氏が脚色した青春映画(出目監督の言葉を拝借すると"純情青春喜劇")で、出目昌伸監督の映画監督デビュー作である。

 

受験生活に明け暮れる思春期の少女が背伸びして見た大人の世界と、少女の鋭く敏感な感受性に迫る複雑な心境を引き出し、子供なのか?大人なのか?と云う、自身の存在に疑問を抱く17歳の少女を題材に「子供扱いされる違和感を拭うべく無知な少女が大人ぶろうと空回る」一連が麗らかに描き出されている。

そして、少女によって無意識にも巻き込まれた周りの大人も成長していく過程を描いた作品で、何方かと云えば私は後者が主題な気もした。

と云うのは、感受性が鋭い若者が成長するのは経験や知識が乏しい故に安易な事である。

だが、大人はどうだろう。経験や知識がある程度備わった30過ぎた大人はどうだろうか。

立場や年齢は違えど、子供と大人の間にいる高校生の陽子と、大人だけど若者では無いオジサマの小倉は、何れもニュートラルで同一視の対象になった。

新鮮味に欠けた日常を繰り返す中で、青春の香気を纏った瑞々しい陽子の存在によって純化していく小倉の少年の様な眼差しが陽子の眼差しとリンクする瞬間は、本作の見所とも云えよう。

陽子と小倉が急接近する機会となったセスナ飛行へ再び誘う小倉に対して「素敵な想い出は一度だけでいい」と云う異様に大人びた陽子の言葉は、子供と大人の概念を覆す台詞として深く印象に残っている。

 

陽子が小倉に抱いた感情は初恋では無く、憧憬の念に近いものを感じた。

小倉は陽子に御別れとして陽子の額にキスをするが、フランツ・グリルパルツァーの『接吻』に基づくならば、額へのキスは「友情」となる。

友情と一言で表すにはロマンに欠ける陽子と小倉の関係は、御互いの倦怠を溶かし合うかの如く共依存的で甘酸っぱい。

共依存的…と云えば、陽子の姉・秀子(村松英子氏)と義兄・一夫(熊倉一雄氏)の夫婦。

サイケデリックな画を描く義兄は奇抜で豪快な風貌とは裏腹に、臆病で妻が居なければ不安で怖気付いてしまうインパクトのある人物性だが、過剰な自尊心と小胆さはアダルトチルドレンを彷彿とさせる卓抜なキャラクターだ。

 

当時人気絶頂だったと云うブルーコメッツが特別出演しており、青春の象徴として映画に華を添えた。(特に「ブルー・シャトウ」は憂鬱な少女の心情に相応しいメロディー)

 

鑑賞の動機は、西條康彦様の御出演。

帰国した一夫の取材でフラッシュを焚きまくるカメラマン役、カメラを構え歯切れ良い動きで去り際に「どーも」と一言台詞があるが、聡明な西條様の事ですからアドリブの可能性有り。

ほぼ後姿で御尊顔は一瞬と云う難解で、危うく見逃すとこだった。

この難易度は「さらばモスクワ愚連隊」の御出演に並ぶだろう。(奇しくも封切りが同じ年で、撮影も同じ福沢康道氏だった)

 

余談:ロケ地に調布飛行場が出たよ。

陽子と小倉が搭乗したセスナは、ウルトラQで御馴染みセスナ172の後継型(1962年モデル)でした。