これでもくらえ

なにもかもウルトラQのせいだ

映画『伊豆の踊子』(1967年 東宝)

 

恩地日出夫監督、映画『伊豆の踊子』の感想です。

ラピュタ阿佐ヶ谷にて鑑賞。

 

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― 東京から伊豆へ一人旅に出た一高生・川崎(黒沢年男氏)は下田へ向かう途中に出会った旅芸人一座の踊子・薫(内藤洋子氏)に惹かれた。

突然の俄雨で訪れた茶屋で偶然再会した両者は、旅を共にする事となる。

一座は、踊子の兄・栄吉(江原達怡氏)栄吉の妻・千代子(田村奈己氏)、千代子の母お芳(乙羽信子氏)であった。

旅の途中、川崎は分不相応の仲を気に留める事も無く、飾り気の無い清純無垢な薫に魅せられ、薫もまた川崎へ純情を抱くのであった。

湯ヶ野の町で何日か座敷を務めた一座は、やがて下田に到着するのだが、東京の学校へ戻らなければならない川崎との別れが刻一刻と近付き………

 

本作は、川端康成氏の実体験を元にした短編小説「伊豆の踊子」を井手俊郎氏と恩地監督が共同で脚色した文芸映画。

川端文学の代表作として現在に至るまで六度映画化されており、恩地監督版の「伊豆の踊子」は五作目となる。

如何せん恥を忍ばず(安定の)原作未読で挑んだ立場からしての存意である事を先ずは御詫び申し上げますm(_ _)m

 

目が合った青年と少女が互いに心を重ね合わせる瞬間を捉え、秘情を抱く青年の真っ直ぐな視線が眩しい印象深い冒頭の映像美に、惹き込まれる。

まるで川崎が薫に惹かれるかの如く、自身も世界観に惹きずり込まれる感覚はまるで疑似体験をしているかの様だった。 

これは最近同じ監督の作品『あこがれ』を観賞した際にも想察したが、恩地監督は登場人物の繊細な心情を人間の表情で惹き出す心理描写が桁違いである。

 

川崎と薫の叶わぬ悲恋の過程で、救い様の無い格差や差別問題が顕在していた。

川崎と薫の身分違いも同様だが、貧困に喘ぐうら若き少女が淫売を行い、金持ちの男は買春すると行ったショッキングな挿話が記憶に残る。

体を弄ばれた少女がやがて病気に侵され、貧乏故に治すあても無い。

それでも男は買春を止めない惨さ。憔悴しきった少女の体でさえ抱く始末。

やがて"生きるより死ぬ方がマシ"だと死んでいった少女は墓で安らかに眠る事すら許されない。

そして、少女の姉も情婦として生きるしか術の無い状況……富裕層と貧乏人の差別が映し出されていた。

死に際の少女の現状を目にした薫が流した涙は、"可哀想"などと云った同情の涙では無く、格差社会に対しての如何する事も出来ない憎しみや怒り、もどかしさに近い感情が根源だと思う。

時代背景や尺度は異なるが、少なからず現代にも通ずる社会問題の提起に感傷せざるを得ない。

刮目すべきは、病死した少女の姉を演じた団令子氏が独断場を確立した川崎と情婦等との混浴シーン。

妹の尊厳を奪い返す誇り高き迫真な威圧感に満ちた鋭い眼差しから流れる涙に思わず息を呑んだ。

嘆きながらも、免れ得ない自身の運命に強く立ち向かう姿に対して、"穢い"と蔑視される情婦と云う職が清らかな背徳に思えて仕方無かった。

 

比喩的ではあったが、踊子=遊女なのだろう。

川崎は、薫のバージンを憧憬し、処女である事を重要性を注視していた。

代表的に取り上げられるのが、湯ヶ野の座敷で男性客に汚されてしまうのでは無いかと川崎が心配していた矢先、朝湯に浸かる末吉と川崎に向かって恥じらいも無く無邪気に裸で大きく手を振ってきた薫を見て処女を確信、「子供なんだ」と安堵の笑みを浮かべる場面。

陰性な感情が一気に浄化された黒沢年男氏の開放感に満ちた満面の笑みが、作中何より輝いて見えた様な気がする。

 

座敷で真剣に太鼓を叩く薫と船上で涙を流す川崎の余りに切ない別れは、心憂い余韻を残した。二人の感情と共に、自分の感情までもが放置された気に苛まれたのだ。

川崎が薫に抱いていた感情は明らかにならず仕舞いであったが、薫が川崎に情理を兼ね備えた純心を向けていた様に、淫情の介入は無かったと思いたい。

 

余談:「下田に着いたら…」と繰り返し薫が発していた台詞、「活動(映画)に連れて行って下さいましね」が「カツ丼に連れて行って下さいましね」にずっと聞こえてた

難聴だろうか?老化が順調に進行しているようですな、ははは (笑い事じゃない)